「考えなさい」という呪い。

最近、「考えなきゃ病」にかかっている子供が多いように思う。

難しい問題を見ると、すぐに“考え”出す。しばらくそのまま硬直しているので、大丈夫?と聞くと、「今、考えてる」と言う。そして、さらにもうしばらくそのままにしておくと、最終的には「分からない」と言う。

そういう子にはまず「やってごらん」と言うことにしている。数値をあてはめてみたりとかでもいいから、とにかくやってごらん、と。その子は最初は戸惑いながらも、そして面倒くさそうに、いくつかの数値をあてはめてみたりする。
いくつかあてはめていくうちに、「あっ」と気づき、そのうち答えにたどりつく。

その問題は、その子にとって「解けた」はずの問題なのである。そう、“考えよう”とさえせず、最初から手を動かしていれば。

私はよく、次のようなたとえ話をする。

目の前に、見た目が全く同じ宝箱が3つあります。そのうちの1つには宝が入っていますが、残りは空っぽです。さて、あなたはどうしますか。

たいていの子供は、すぐに「全部あけてみる(全部持って帰る)」と答える。もちろん、それが正解。
たとえ話なら迷わず正解するのに、算数の問題を前にすると、そうはいかない。

宝箱の外見を、注意深く観察し始める。どこかに違いがないか、じっくりと“考え”始める。
もちろん何の情報も得られず、わからない、どうしよう、と諦める。
もしくは、ほんの小さなキズを見つけてきて、「これが正解の宝箱だ!」と決めつける。
(その場であけてみて、空っぽであることを確認する子はまだマシで、ほとんどの子供は、その“正解の宝箱”だけを意気揚々と持ち帰る。そして、家に帰ってから空っぽだということに気づくのだ。)

とても滑稽な話である。しかし、現実的にはそういう子が多い。

実際のところ、算数の問題だと、宝箱の数は100個とか1000個くらいなのかもしれない。それくらいの数だと、“考え”て候補を絞ったほうがいいんじゃないか、と思いたくなる気持ちもよく分かる。
しかし、算数の得意な子は、それでもやっぱりあけていく。片っ端からあけていく。
あけた宝箱の中に、たまにヒントが入っているのを知っているからだ。そうやって入手した手がかりによって、残りの宝箱を絞っていく。まずはやってみて、ヒントを手に入れて、そこで初めてその情報の意味や使い方を“考え”る。

効率的な解き方があるのに、それに気づかず一生懸命試行錯誤している子がいるとする。そういう子を見ていると、もっと“考えれば”楽に解けるのに、と思ってしまう気持ちもわからないでもない。
しかし、「考えれば気づくだろう」と思うのは、大人がすでに知っているからというだけ。そう思っている“大人”のほうだって、知っていなかったらいくら考えてもきっと何も思いつかない。

「考える力が大事」ということは、まあ間違いではないと思う。しかし、「考える」という言葉の意味は、もう少し慎重に受け止めてほしい。安易に子供に「考えなさい」と言ってしまうと、それは非常に強力な呪いにもなりうる。

子供が試行錯誤しているときは、たとえ非効率的に見えても、最後まで温かく見守ってあげてほしい。むしろ、“考えよう”として手が止まっている子がいれば、「やってごらん」と言ってあげてほしい。
解き方を“考え”つく子のほうが算数ができるのでは、というイメージがあるかもしれないが、最終的に「算数の得意な子」になれるのは、自分の手を動かせる子である。

「考えなさい」という呪い。」への2件のフィードバック

  1. 川崎和泉

    私はよく、次のようなたとえ話をする。
    目の前に、見た目が全く同じ宝箱が3つあります。そのうちの1つには宝が入っていますが、残りは空っぽです。さて、あなたはどうしますか。
    たいていの子供は、すぐに「全部あけてみる(全部持って帰る)」と答える。もちろん、それが正解。
    たとえ話なら迷わず正解するのに、算数の問題を前にすると、そうはいかない。

    同感です!私もよく「この教室のどこかに100万円の札束がある。どうする?」と言ってました。

  2. 小田 投稿作成者

    川崎さん

    100万円の札束、いいですね!
    そう言われたらきっと、教室の中を探し回るんでしょうけど、算数の問題を解くときには、「教卓の中にありそうな気がする」とか言ってるだけ、という状態になるんでしょうね(笑)

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