カテゴリー別アーカイブ: 算数・数学・教育。

算数・数学・教育について、思うこと、考えること、感じること。

必ず実力がつく算数・数学の問題演習のやり方。

塾生用に作ってみたものですが、せっかくなのでブログにもアップすることにしました。

実際にいろんな子を見ていると、”問題演習”がまともにできている子がほとんどいないことに気づきます。

せっかくたくさん勉強しても(勉強したつもりでも)、やり方が間違っていたら何も身につきません。
頑張っても(頑張ったつもりでも)力がつかなかったら、算数・数学が嫌いになってしまいます。

やる気はあるのに、やり方が間違っているせいで伸びない、という子を見るのは、私もつらいです。
ぜひこれを役立てて、「実りのある問題演習」をしてください。

PDF版はこちらから

きちんとやろうとすると、もちろんそんなに楽でもありませんが、その苦労はちゃんと成果の出る苦労です。
頑張ってください。


答えを出したいのか、正解したいのか。

子供が問題を解いているのを隣で見ていると、“正解する気”がないのではないか、と思うことがよくある。
やる気がない、というわけではない。真面目に取り組んでいない、というわけでもない。
やる気はあって、真面目に取り組んでもいるのに、ただ“正解する気”がない。

例えば、子供が「実力的には解けるはずの問題」を間違えるとき。
解き終わってバツがついてしまってから振り返ってみると、単なる“ミス”に見えることも多い。
そうすると、次から気をつけようね、で終わってしまう。
しかし、解いている様子を隣りでよくよく見ていると、実はその途中、一瞬動きが止まることに気づく。

どこかでミスをしたまま解き進めていると、多くの場合、「何かおかしい」と感じる瞬間がある。
解いている子供の動きが止まる瞬間、というのは、その「自分が“間違えた”ことに気づいた瞬間」である。
本来ならば、その時点で一度立ち止まり、もう一度さかのぼってやり直す必要がある。
だが、多くの子は“気づかなかった”ことにしてそのまま先に進んでしまう。そして、予定調和のごとく“間違った答え”を導き出す。

自分の間違いに気づいたとき、そこでどういう道を選ぶか、というのはなかなか難しい問題である。
それまで解いてきたものを白紙に戻し、もう一度解き直す、というのは、正直なところとても面倒くさい。そしてそれだけでなく、“問題解決”の瞬間が遠退くことになる。
算数・数学の問題を解くとき、脳に大きな負荷がかかる。間違いでも答えを出してしまえば、その負荷からは解放される。
結局そこで起きているのは、「間違えてもいいから答えを出してこの問題から解放されたい」という思いと「解き直すのが面倒でも正解にたどりつきたい」という思いのせめぎあいである。
ここで”正解する気”が弱いと、「そのまま解き進める」道を選んでしまう。

とはいえ、正解する気が弱い、というのが責められるべきことかというと、別にそうは思わない。むしろ、それが普通だと思う。
普通、入学試験のようなテストを除いて、普段の学校のテストや家で問題を解いているとき、“正解”して得られるものはそう多くない。
もちろん、正解すれば嬉しいが、言ってしまえばそれだけである。
一方で、間違って失うものも、実はあまり大きくない。テストで悪い点を取ったりするだけである。または、多少親や先生に怒られるだけである。
いずれにせよ、算数・数学の問題を“正解”するために大きな労力を費やすことは、普通は割に合わない。

だから、それでも“正解”にこだわる子、つまり算数・数学のできる子、というのは、単に「問題を解くのが楽しい」というのではなく、「問題が解けないと死んでしまう」子なのだと思う。
“正解すること”にプライドやアイデンティティ、つまり“命”を懸けている子なのだと思う。
そこまでのものを賭けているから、天秤は“正解を目指す”ほうに傾く。
(思い返せば、自分の周りにはそういう人が多かったし、自分も昔はそうだったような気がするが、一般的に見れば「変な子」なのだろう。)

正解することにこだわりを持てるようになれば、算数・数学ができるようになるまではすぐである。
ただそうは言っても、そういうメンタリティをどうやって育んでいくか、というのはなかなか答えの出ない問題ではあるし、そもそもそんな「普通の子」を「変な子」にしてしまってもいいのか、というのも永遠に解決されない論点ではある。


小学校のころの先生の話。

先日、ちょっとしたきっかけがあって、ふと自分が小学生だった頃の担任の先生のことを思い出した。

私は、小学校のころから勉強はよくできた(自分で言うのもなんですが)。そして、ありがちな話だが、結構生意気だった(これは今もかもしれないけど)。
たぶん、「ちょっと勉強ができるからっていい気になりやがって」と思っていた先生も、まあそれなりにいたのだとは思う。
でも、その先生はそんなことは言わず、むしろいい意味で私を特別扱いしてくれていた(その先生にとっては、きっと一人ひとり“特別扱い”していたんだろうなぁ、と今になって思うが)。

その先生とのエピソードで覚えていることが3つある。

一つ目は、私が“置き勉”していた話。
小学校高学年に入って、教科書などが増えてくると、私はそれを全部学校に置いてきていた。理由は単純に、重たいから。そしてついでに、学校の勉強は別に家でやらないから、というのもあった。
他にも“置き勉”していて注意される子はいたが、私は別にそれをとがめられなかった。宿題は学校にいる間に終わらせていたし、時間割もきちんと前日の帰りに翌日の分を選別してまとめていた。
親との懇談では、「ここまでやるなら、まあいいでしょう」という話になったらしい。

二つ目は、テスト中に教室から出て行った話。これももちろん、「私が」である。
そのテストのときは、最初に先生が「90点以上取れる、と思ったら、そのままテストを提出して外に遊びに行っていいですよ」と言っていた。
それをそのまま受け取っただけ、という話ではあるし、先生も、別に「本当に出て行くと思わなかった」とは思っていなかったと思う。
だから別にその件で叱られた、ということではないが、しかしこの話を覚えている理由は、そのテストの点数が、実は90点ギリギリだったからだ。さっさと終わらせて、颯爽と外に飛び出していったわりに、である。
しかも、少しおまけをしてもらっていた。×でもよさそうなところを、減点ですませてもらっていた。先生も、だいぶ悩んだのかもしれない。
生意気な鼻っ柱をへし折るチャンスでもあっただろうに、先生は私のプライドに配慮する選択をしてくれた。
私がそれを「ラッキー」と思うような性格でなく、「手心を加えてもらっちゃったな」と思う性格だから、というところまで理解してくれていたのだろう。

三つ目は、先生の代わりに授業をした話。
私にとって、学校の授業は知っていることばかりであまり面白くなかった。先生もそれは心配してくれていたのだと思う。
だからなのだろうが、たまに先生は「先生はうまく説明できないから、代わりに小田に解説してもらおうか」みたいなことをおっしゃった。
おだてられて調子に乗った私は、他のクラスメイトに対して一生懸命説明したのを覚えている。それはきっと楽しかったのだと思う。
今でもなんだかんだで人に教えるのが好きで、こういう仕事をしているのは、その先生のおかげかもしれない。

個性を大事にする教育、というのは、結局のところ、引き出しの多さと懐の深さだと思う。
教育現場で昨今重要視されているそれが、なかなかうまくいかないのも、単純に難しいからだと思う。
自分もその先生みたいになれたらいいな、と思うことはあるが、まだまだ先かな、とも思う。


「考えなさい」という呪い。

最近、「考えなきゃ病」にかかっている子供が多いように思う。

難しい問題を見ると、すぐに“考え”出す。しばらくそのまま硬直しているので、大丈夫?と聞くと、「今、考えてる」と言う。そして、さらにもうしばらくそのままにしておくと、最終的には「分からない」と言う。

そういう子にはまず「やってごらん」と言うことにしている。数値をあてはめてみたりとかでもいいから、とにかくやってごらん、と。その子は最初は戸惑いながらも、そして面倒くさそうに、いくつかの数値をあてはめてみたりする。
いくつかあてはめていくうちに、「あっ」と気づき、そのうち答えにたどりつく。

その問題は、その子にとって「解けた」はずの問題なのである。そう、“考えよう”とさえせず、最初から手を動かしていれば。

私はよく、次のようなたとえ話をする。

目の前に、見た目が全く同じ宝箱が3つあります。そのうちの1つには宝が入っていますが、残りは空っぽです。さて、あなたはどうしますか。

たいていの子供は、すぐに「全部あけてみる(全部持って帰る)」と答える。もちろん、それが正解。
たとえ話なら迷わず正解するのに、算数の問題を前にすると、そうはいかない。

宝箱の外見を、注意深く観察し始める。どこかに違いがないか、じっくりと“考え”始める。
もちろん何の情報も得られず、わからない、どうしよう、と諦める。
もしくは、ほんの小さなキズを見つけてきて、「これが正解の宝箱だ!」と決めつける。
(その場であけてみて、空っぽであることを確認する子はまだマシで、ほとんどの子供は、その“正解の宝箱”だけを意気揚々と持ち帰る。そして、家に帰ってから空っぽだということに気づくのだ。)

とても滑稽な話である。しかし、現実的にはそういう子が多い。

実際のところ、算数の問題だと、宝箱の数は100個とか1000個くらいなのかもしれない。それくらいの数だと、“考え”て候補を絞ったほうがいいんじゃないか、と思いたくなる気持ちもよく分かる。
しかし、算数の得意な子は、それでもやっぱりあけていく。片っ端からあけていく。
あけた宝箱の中に、たまにヒントが入っているのを知っているからだ。そうやって入手した手がかりによって、残りの宝箱を絞っていく。まずはやってみて、ヒントを手に入れて、そこで初めてその情報の意味や使い方を“考え”る。

効率的な解き方があるのに、それに気づかず一生懸命試行錯誤している子がいるとする。そういう子を見ていると、もっと“考えれば”楽に解けるのに、と思ってしまう気持ちもわからないでもない。
しかし、「考えれば気づくだろう」と思うのは、大人がすでに知っているからというだけ。そう思っている“大人”のほうだって、知っていなかったらいくら考えてもきっと何も思いつかない。

「考える力が大事」ということは、まあ間違いではないと思う。しかし、「考える」という言葉の意味は、もう少し慎重に受け止めてほしい。安易に子供に「考えなさい」と言ってしまうと、それは非常に強力な呪いにもなりうる。

子供が試行錯誤しているときは、たとえ非効率的に見えても、最後まで温かく見守ってあげてほしい。むしろ、“考えよう”として手が止まっている子がいれば、「やってごらん」と言ってあげてほしい。
解き方を“考え”つく子のほうが算数ができるのでは、というイメージがあるかもしれないが、最終的に「算数の得意な子」になれるのは、自分の手を動かせる子である。