子供が問題を解いているのを隣で見ていると、“正解する気”がないのではないか、と思うことがよくある。
やる気がない、というわけではない。真面目に取り組んでいない、というわけでもない。
やる気はあって、真面目に取り組んでもいるのに、ただ“正解する気”がない。
例えば、子供が「実力的には解けるはずの問題」を間違えるとき。
解き終わってバツがついてしまってから振り返ってみると、単なる“ミス”に見えることも多い。
そうすると、次から気をつけようね、で終わってしまう。
しかし、解いている様子を隣りでよくよく見ていると、実はその途中、一瞬動きが止まることに気づく。
どこかでミスをしたまま解き進めていると、多くの場合、「何かおかしい」と感じる瞬間がある。
解いている子供の動きが止まる瞬間、というのは、その「自分が“間違えた”ことに気づいた瞬間」である。
本来ならば、その時点で一度立ち止まり、もう一度さかのぼってやり直す必要がある。
だが、多くの子は“気づかなかった”ことにしてそのまま先に進んでしまう。そして、予定調和のごとく“間違った答え”を導き出す。
自分の間違いに気づいたとき、そこでどういう道を選ぶか、というのはなかなか難しい問題である。
それまで解いてきたものを白紙に戻し、もう一度解き直す、というのは、正直なところとても面倒くさい。そしてそれだけでなく、“問題解決”の瞬間が遠退くことになる。
算数・数学の問題を解くとき、脳に大きな負荷がかかる。間違いでも答えを出してしまえば、その負荷からは解放される。
結局そこで起きているのは、「間違えてもいいから答えを出してこの問題から解放されたい」という思いと「解き直すのが面倒でも正解にたどりつきたい」という思いのせめぎあいである。
ここで”正解する気”が弱いと、「そのまま解き進める」道を選んでしまう。
とはいえ、正解する気が弱い、というのが責められるべきことかというと、別にそうは思わない。むしろ、それが普通だと思う。
普通、入学試験のようなテストを除いて、普段の学校のテストや家で問題を解いているとき、“正解”して得られるものはそう多くない。
もちろん、正解すれば嬉しいが、言ってしまえばそれだけである。
一方で、間違って失うものも、実はあまり大きくない。テストで悪い点を取ったりするだけである。または、多少親や先生に怒られるだけである。
いずれにせよ、算数・数学の問題を“正解”するために大きな労力を費やすことは、普通は割に合わない。
だから、それでも“正解”にこだわる子、つまり算数・数学のできる子、というのは、単に「問題を解くのが楽しい」というのではなく、「問題が解けないと死んでしまう」子なのだと思う。
“正解すること”にプライドやアイデンティティ、つまり“命”を懸けている子なのだと思う。
そこまでのものを賭けているから、天秤は“正解を目指す”ほうに傾く。
(思い返せば、自分の周りにはそういう人が多かったし、自分も昔はそうだったような気がするが、一般的に見れば「変な子」なのだろう。)
正解することにこだわりを持てるようになれば、算数・数学ができるようになるまではすぐである。
ただそうは言っても、そういうメンタリティをどうやって育んでいくか、というのはなかなか答えの出ない問題ではあるし、そもそもそんな「普通の子」を「変な子」にしてしまってもいいのか、というのも永遠に解決されない論点ではある。